三時間の使い方
冬になったら、ロシアの小説を読みたくなります。なぜなら寒いから。
ドストエフスキーのことをわたしは敬意を表して「ドス兄」と呼んでいます。社会主義とか賭博とかてんかんとか色々あって、はげてるけどヒゲとうしろ髪は伸ばしたりして、小説書いて、生きて死んだドス兄ですが、なくなる日の朝、
「三時間考えたんだけど、たぶん俺、今日死ぬと思うねん」
と言って、昼前に体調が悪くなって、夜に死んだそうです。
なかなかこんなしっくりくる死に方ってない、凄いなと思うとともに、死ぬんやったら三時間他のことに死ぬ前の時間を使った方がよかったんじゃ、と思ったり、死ぬ前の数時間の有効な使い方ってなんやねんと思ったりするわけです。
墓よりも怖いもの
この間、近所の大きな公園でぼうっとしていると、隣のベンチに家があるんだかないんだか分らないおばあさんが座りました。しばらくそのままでいると、家あるっぽいおばあさんがやってきて、公園の人付き合いについて語りだしました。
どうもこの公園に住んでいて、やたら話しかけてくるので煙たがられてるおじいさんがいるらしく、おばあさんは見つかるとうっとうしいので避けて暮らしているらしいのです。
「でな、乗馬センターの方に行ったら絶対おると思って、墓を通っていってん」
「えぇ~、わたし墓なんかこわくてよういかんわ」
なるほど、だけど話はおじいさんどころでなくなってゆきます。
「でも、もっと怖いもんいっぱいあるやん」
「せやな、あっこのトイレもあっこのトイレも首つりあったからな」
「せやねん、あの最近きれいにしたトイレでもこの間行ったらサラリーマンがプラプラしてたからびっくりしたわ」
「うっかりいったら、おるからびっくりするよな」
な、なるほど。
「最近、うろうろすぐトイレ行くにーちゃんおるやろ、あの子も怪しいって思ってんねん」
な、な、なるほど。
そこで雪も降ってきたことだし、帰ることにしたのだけど、都市と公園って、感慨深いものだなと思いました。あと、うっかりトイレには入らん方がいいなと思いました。あと、最後におばあさん達が男子トイレに入っているのか、男たちが女子トイレで首を吊るのかどちらなのかと思ったりもしました。
三時のあなた
孫とおばあちゃんの会話。
「お腹すいた~」
「まだ十一時や、我が家では昼ごはんは十二時や」
「え~、まだ一時間もあるやん・・・じゅういちじ、じゅうにじ、いちじ、にじ、さんじ・・・三時は?三時もまた食べるやんな」
「三時のあれは、ファッションや」
三時のあれは、ファッションだったんですか?ファッションだったんですね。
棒がいっぽんあったとさ
たまに思う、
「なんで泥に棒で『泥棒』やねん」
と。ドロボーのイメージと「泥棒」が遠い。ドロボーは「盗人」で泥棒は「泥の沼に立っている棒」だ。結びつかない。
それと同じで「おてんば」が「お転婆」なのもしっくりこない。ババア転んでキャンディキャンディにはならんやろ。逆にってことかい?世の中不思議だらけです。
いるよ
実家は田舎で近所に牛がいるのは、たまにもうもう言っているので知っていたのだがニューカマーが現れた。車で五分ほど走った最寄りのローソンの前に茶色のヤギがいるのだ。
うるさくないし、臭くないし、雑草を食べるしで中高年の間でヤギ飼育が流行しているのは知っていたけど(おかんも飼っている友達に勧められたらしい)ほんとだったんだ。
ヤギのいるローソンとヤギのいないローソンならヤギのいるローソンがいい思います。
小さな恋で満たされている
たくさん病気を持ったおじさんとお話をしていて、
「はいほうて分かる?」
と聞かれました。はいほう・・・はいほう、
「ああ、ブドウみたいなやつですね」
「そうそう、それがつぶれていく病気やねん」
そうか、それは大変だ・・・
「静かに夜、風呂入ってたらな。大きい息を吸ったら、ぺちんて肺胞がつぶれる音すんのよ」
それ以来、お風呂に入っている時にたまにぺちんと彼の肺胞のつぶれていく音を想像するときがあります。だからと言って仲良くなるとかいうわけではないですが、世界はこういう小さな恋で満たされています。